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第二章 図書館の老婦人

Author: 佐薙真琴
last update Last Updated: 2025-12-04 09:07:56

 翌日の放課後、透花は再び市立図書館を訪れた。

 秋の陽射しが、古い建物の壁面を照らしている。昨夜の雨で洗われた空気が、どこか透明で、透花の肺に心地よく入り込んできた。

 図書館の扉を開けると、昨日と同じ古書の匂いが透花を迎えた。受付には同じ女性がいて、やはり雑誌を読んでいる。

 透花は館内を歩き、老婦人の姿を探した。

 しかし、どこにもいない。

 透花は文学の書架に戻り、昨日立っていた場所に立った。老婦人は、確かにここにいた。そして、透花の名前を知っていた。

「探し物かしら?」

 声に振り向くと、老婦人が立っていた。

 昨日と同じ上品な装い。だが、今日はどこか疲れたような、影のある表情をしていた。

「あの、昨日は……」

「覚えているわ。透花ちゃん。本は読んだ?」

「はい。でも、途中で終わっていて……」

「そうね。あの本は未完なの。作者が結末を書かずに亡くなってしまったから」

 老婦人は寂しげに微笑んだ。

「でも、あの庭の話は……本当なんですか?」

「本当とは何かしら?」

 老婦人は透花の目を見つめた。

·······。でも、·············。あなたは何を信じたいの?」

 透花は答えに詰まった。

「私は……失った人に、もう一度会いたいんです」

 その言葉が口をついて出た瞬間、透花は自分でも驚いた。それは透花が認めたくなかった、本当の願いだった。

 老婦人は静かに頷いた。

「そう。でもね、透花ちゃん。庭で見つかるのは、失ったものではないの」

「え?」

「失ったものは、もう戻らない。庭で見つかるのは、·········

 老婦人はそう言うと、書架の間を歩き出した。透花は後に続いた。

 やがて二人は、図書館の最奥にある小さな部屋に辿り着いた。「郷土資料室」と書かれたプレートが、古びた扉に掛かっている。

「ここには、この街の古い記録がある。新聞、日記、写真。人々の記憶が、紙の中に閉じ込められているの」

 老婦人は扉を開けた。

 室内は薄暗く、古い紙の匂いが充満していた。壁際には木製の書棚が並び、黄ばんだファイルや本が詰め込まれている。

「七十年前、この街には本当に美しい庭があったの」

 老婦人は棚から一冊のアルバムを取り出し、開いた。

 そこには、古い白黒写真が貼られていた。

 広大な庭園。中央には温室があり、その周りを花々が取り囲んでいる。写真は色褪せているが、それでもその庭の美しさが伝わってきた。

「這いずる蔓薔薇の庭園。実業家の柏木家が所有していた私邸よ。柏木家の当主は植物学者で、世界中から珍しい植物を集めていたの」

「綺麗……」

 透花は写真を凝視した。

「でも、戦争が全てを変えた。柏木家の当主は戦死し、庭は荒廃した。戦後、土地は売却され、庭は取り壊された。今は住宅地になっているわ」

 老婦人は別のページを開いた。

 そこには、若い女性の写真があった。白いワンピースを着て、温室の前に立っている。

「これが、柏木家の一人娘。美咲という名前だった」

「美咲さん……」

「美咲は庭を愛していた。毎日、花の世話をして、訪れる人々に庭を案内していた。でも、戦争で全てを失い、心を病んでしまった」

 老婦人の声が、少し震えた。

「美咲は晩年、こう言い続けていたそうよ。『庭はまだある。私には見える。失ったものは、そこにある』と」

 透花は息を呑んだ。

「それで、その美咲さんは……」

「七十歳で亡くなった。最期まで、庭のことを語り続けていたそうよ」

 老婦人はアルバムを閉じた。

「人はね、大切なものを失うと、それを探し続けるの。実際にはもう存在しないと分かっていても。それが、生きるということなのかもしれないわね」

 透花は老婦人を見つめた。

「あなたは……誰なんですか?」

 老婦人は微笑んだ。

「私? 私は図書館に住み着いた幽霊よ。記憶の番人。忘れられた物語の語り部」

 冗談めかした口調だったが、その目は真剣だった。

「透花ちゃん、あなたは優しすぎる。他人の痛みを引き受けて、自分の痛みから目を背けている」

 透花は息を呑んだ。

「でも、それではいけない。あなた自身の痛みと向き合わない限り、本当の意味で他者を救うことはできないわ」

「私は……」

「庭を探しなさい。本当の庭を。それは物理的な場所ではない。あなたの心の中にある」

 老婦人はそう言うと、郷土資料室を出ていった。透花は一人取り残され、開かれたアルバムを見つめた。

 写真の中の庭は、確かに美しかった。でも、それはもう存在しない。

 失われたものの意味。

 それは何だろう。


 透花は図書館を出て、住宅街を歩いた。

 老婦人の言葉が、頭の中で繰り返される。庭を探せ。心の中にある庭を。

 透花は気づくと、病院の前に立っていた。

 母が最期の三か月を過ごした病院。透花は毎日ここに通い、母の手を握っていた。母の痩せていく手を、温めようとして。

 透花は病院の中に入った。

 受付で面会の申し出をすると、看護師が不思議そうな顔をした。

「面会ですか? どちらの患者さんに?」

「あ、いえ……すみません。間違えました」

 透花は慌てて病院を出た。

 母はもういない。それなのに、透花の体は勝手に母のいた場所に向かってしまう。

 透花は病院の裏手にある小さな公園に入った。

 ベンチに座り、空を見上げる。秋の空は高く、雲が流れていく。

「あの……」

 声に顔を向けると、少年が立っていた。

 透花と同じくらいの年齢だろうか。痩せた体に、大きめのパーカーを着ている。顔色は悪く、目の下にはクマができていた。

「ここ、座ってもいいですか?」

「あ、はい。どうぞ」

 少年は透花の隣に座った。

 しばらく、二人は黙っていた。風が木の葉を揺らし、カサカサという音が響く。

「君も、病院に?」

 少年が聞いた。

「え? あ、いえ……私は違います。あなたは?」

「うん。入院してるんだ。でも、今日は外出許可をもらって」

 少年は空を見上げた。

「久しぶりに外の空気を吸うと、生きてるって感じがする」

 その言葉に、透花の胸が締め付けられた。

「病気は……重いんですか?」

「うん。まあね。でも、医者は希望を持てって言う。希望って何だろうね」

 少年は自嘲気味に笑った。

「僕は蒼って言うんだ。空の蒼」

「私は透花。透き通る花の透花」

「いい名前だね。透明な花。何も隠さない花」

 蒼は透花を見た。

「でも、君は何か隠してる。目が悲しそうだ」

 透花は息を呑んだ。

「私……母を亡くしたんです。最近」

「そうなんだ。ごめん」

「いえ……」

 透花は蒼の横顔を見た。病的なまでに白い肌。でも、その目には確かに生きる意志が宿っていた。

「蒼くん、あなたは死ぬのが怖い?」

 自分でも驚くような質問が、透花の口をついて出た。

 蒼は少し考えてから答えた。

「怖いよ。でも、怖いのは死ぬことじゃなくて、·············

「何も残さずに……」

「うん。僕が生きた証が、何もないまま消えてしまうこと。それが一番怖い」

 蒼は立ち上がった。

「そろそろ戻らないと。また会えるかな?」

「はい。また」

 蒼は小さく手を振って、病院に戻っていった。

 透花は一人、ベンチに残された。

 何も残さずに消えること。

 母は何を残しただろう。日記。思い出。そして、透花。

 でも、透花は母の思いを受け継げているだろうか。母が望んだように、生きられているだろうか。

 透花は立ち上がり、家に向かって歩き出した。

 心の中で、小さな決意が芽生えていた。

 庭を探そう。本当の庭を。そして、失ったものの意味を見つけよう。

 母のためではなく、自分のために。

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