LOGIN翌日の放課後、透花は再び市立図書館を訪れた。
秋の陽射しが、古い建物の壁面を照らしている。昨夜の雨で洗われた空気が、どこか透明で、透花の肺に心地よく入り込んできた。
図書館の扉を開けると、昨日と同じ古書の匂いが透花を迎えた。受付には同じ女性がいて、やはり雑誌を読んでいる。
透花は館内を歩き、老婦人の姿を探した。
しかし、どこにもいない。
透花は文学の書架に戻り、昨日立っていた場所に立った。老婦人は、確かにここにいた。そして、透花の名前を知っていた。
「探し物かしら?」
声に振り向くと、老婦人が立っていた。
昨日と同じ上品な装い。だが、今日はどこか疲れたような、影のある表情をしていた。
「あの、昨日は……」
「覚えているわ。透花ちゃん。本は読んだ?」
「はい。でも、途中で終わっていて……」
「そうね。あの本は未完なの。作者が結末を書かずに亡くなってしまったから」
老婦人は寂しげに微笑んだ。
「でも、あの庭の話は……本当なんですか?」
「本当とは何かしら?」
老婦人は透花の目を見つめた。
「
透花は答えに詰まった。
「私は……失った人に、もう一度会いたいんです」
その言葉が口をついて出た瞬間、透花は自分でも驚いた。それは透花が認めたくなかった、本当の願いだった。
老婦人は静かに頷いた。
「そう。でもね、透花ちゃん。庭で見つかるのは、失ったものではないの」
「え?」
「失ったものは、もう戻らない。庭で見つかるのは、
老婦人はそう言うと、書架の間を歩き出した。透花は後に続いた。
やがて二人は、図書館の最奥にある小さな部屋に辿り着いた。「郷土資料室」と書かれたプレートが、古びた扉に掛かっている。
「ここには、この街の古い記録がある。新聞、日記、写真。人々の記憶が、紙の中に閉じ込められているの」
老婦人は扉を開けた。
室内は薄暗く、古い紙の匂いが充満していた。壁際には木製の書棚が並び、黄ばんだファイルや本が詰め込まれている。
「七十年前、この街には本当に美しい庭があったの」
老婦人は棚から一冊のアルバムを取り出し、開いた。
そこには、古い白黒写真が貼られていた。
広大な庭園。中央には温室があり、その周りを花々が取り囲んでいる。写真は色褪せているが、それでもその庭の美しさが伝わってきた。
「這いずる蔓薔薇の庭園。実業家の柏木家が所有していた私邸よ。柏木家の当主は植物学者で、世界中から珍しい植物を集めていたの」
「綺麗……」
透花は写真を凝視した。
「でも、戦争が全てを変えた。柏木家の当主は戦死し、庭は荒廃した。戦後、土地は売却され、庭は取り壊された。今は住宅地になっているわ」
老婦人は別のページを開いた。
そこには、若い女性の写真があった。白いワンピースを着て、温室の前に立っている。
「これが、柏木家の一人娘。美咲という名前だった」
「美咲さん……」
「美咲は庭を愛していた。毎日、花の世話をして、訪れる人々に庭を案内していた。でも、戦争で全てを失い、心を病んでしまった」
老婦人の声が、少し震えた。
「美咲は晩年、こう言い続けていたそうよ。『庭はまだある。私には見える。失ったものは、そこにある』と」
透花は息を呑んだ。
「それで、その美咲さんは……」
「七十歳で亡くなった。最期まで、庭のことを語り続けていたそうよ」
老婦人はアルバムを閉じた。
「人はね、大切なものを失うと、それを探し続けるの。実際にはもう存在しないと分かっていても。それが、生きるということなのかもしれないわね」
透花は老婦人を見つめた。
「あなたは……誰なんですか?」
老婦人は微笑んだ。
「私? 私は図書館に住み着いた幽霊よ。記憶の番人。忘れられた物語の語り部」
冗談めかした口調だったが、その目は真剣だった。
「透花ちゃん、あなたは優しすぎる。他人の痛みを引き受けて、自分の痛みから目を背けている」
透花は息を呑んだ。
「でも、それではいけない。あなた自身の痛みと向き合わない限り、本当の意味で他者を救うことはできないわ」
「私は……」
「庭を探しなさい。本当の庭を。それは物理的な場所ではない。あなたの心の中にある」
老婦人はそう言うと、郷土資料室を出ていった。透花は一人取り残され、開かれたアルバムを見つめた。
写真の中の庭は、確かに美しかった。でも、それはもう存在しない。
失われたものの意味。
それは何だろう。
透花は図書館を出て、住宅街を歩いた。
老婦人の言葉が、頭の中で繰り返される。庭を探せ。心の中にある庭を。
透花は気づくと、病院の前に立っていた。
母が最期の三か月を過ごした病院。透花は毎日ここに通い、母の手を握っていた。母の痩せていく手を、温めようとして。
透花は病院の中に入った。
受付で面会の申し出をすると、看護師が不思議そうな顔をした。
「面会ですか? どちらの患者さんに?」
「あ、いえ……すみません。間違えました」
透花は慌てて病院を出た。
母はもういない。それなのに、透花の体は勝手に母のいた場所に向かってしまう。
透花は病院の裏手にある小さな公園に入った。
ベンチに座り、空を見上げる。秋の空は高く、雲が流れていく。
「あの……」
声に顔を向けると、少年が立っていた。
透花と同じくらいの年齢だろうか。痩せた体に、大きめのパーカーを着ている。顔色は悪く、目の下にはクマができていた。
「ここ、座ってもいいですか?」
「あ、はい。どうぞ」
少年は透花の隣に座った。
しばらく、二人は黙っていた。風が木の葉を揺らし、カサカサという音が響く。
「君も、病院に?」
少年が聞いた。
「え? あ、いえ……私は違います。あなたは?」
「うん。入院してるんだ。でも、今日は外出許可をもらって」
少年は空を見上げた。
「久しぶりに外の空気を吸うと、生きてるって感じがする」
その言葉に、透花の胸が締め付けられた。
「病気は……重いんですか?」
「うん。まあね。でも、医者は希望を持てって言う。希望って何だろうね」
少年は自嘲気味に笑った。
「僕は蒼って言うんだ。空の蒼」
「私は透花。透き通る花の透花」
「いい名前だね。透明な花。何も隠さない花」
蒼は透花を見た。
「でも、君は何か隠してる。目が悲しそうだ」
透花は息を呑んだ。
「私……母を亡くしたんです。最近」
「そうなんだ。ごめん」
「いえ……」
透花は蒼の横顔を見た。病的なまでに白い肌。でも、その目には確かに生きる意志が宿っていた。
「蒼くん、あなたは死ぬのが怖い?」
自分でも驚くような質問が、透花の口をついて出た。
蒼は少し考えてから答えた。
「怖いよ。でも、怖いのは死ぬことじゃなくて、
「何も残さずに……」
「うん。僕が生きた証が、何もないまま消えてしまうこと。それが一番怖い」
蒼は立ち上がった。
「そろそろ戻らないと。また会えるかな?」
「はい。また」
蒼は小さく手を振って、病院に戻っていった。
透花は一人、ベンチに残された。
何も残さずに消えること。
母は何を残しただろう。日記。思い出。そして、透花。
でも、透花は母の思いを受け継げているだろうか。母が望んだように、生きられているだろうか。
透花は立ち上がり、家に向かって歩き出した。
心の中で、小さな決意が芽生えていた。
庭を探そう。本当の庭を。そして、失ったものの意味を見つけよう。
母のためではなく、自分のために。
翌日の放課後、透花は再び市立図書館を訪れた。 秋の陽射しが、古い建物の壁面を照らしている。昨夜の雨で洗われた空気が、どこか透明で、透花の肺に心地よく入り込んできた。 図書館の扉を開けると、昨日と同じ古書の匂いが透花を迎えた。受付には同じ女性がいて、やはり雑誌を読んでいる。 透花は館内を歩き、老婦人の姿を探した。 しかし、どこにもいない。 透花は文学の書架に戻り、昨日立っていた場所に立った。老婦人は、確かにここにいた。そして、透花の名前を知っていた。「探し物かしら?」 声に振り向くと、老婦人が立っていた。 昨日と同じ上品な装い。だが、今日はどこか疲れたような、影のある表情をしていた。「あの、昨日は……」「覚えているわ。透花ちゃん。本は読んだ?」「はい。でも、途中で終わっていて……」「そうね。あの本は未完なの。作者が結末を書かずに亡くなってしまったから」 老婦人は寂しげに微笑んだ。「でも、あの庭の話は……本当なんですか?」「本当とは何かしら?」 老婦人は透花の目を見つめた。「物語は全て嘘よ。でも、全ての嘘の中に、真実がある。あなたは何を信じたいの?」 透花は答えに詰まった。「私は……失った人に、もう一度会いたいんです」 その言葉が口をついて出た瞬間、透花は自分でも驚いた。それは透花が認めたくなかった、本当の願いだった。 老婦人は静かに頷いた。「そう。でもね、透花ちゃん。庭で見つかるのは、失ったものではないの」「え?」「失ったものは、もう戻らない。庭で見つかるのは、失ったものの意味よ」 老婦人はそう言うと、書架の間を歩き出した。透花は後に続いた。 やがて二人は、図書館の最奥にある小さな部屋に辿り着いた。「郷土資料室」と書かれたプレートが、古びた扉に掛かっている。「ここには、この街の古い記録がある。新聞、日記、写真。人々の記憶が、紙の中に閉じ込められているの」 老婦人は扉を開けた。 室内は薄暗く、古い紙の匂いが充満していた。壁際には木製の書棚が並び、黄ばんだファイルや本が詰め込まれている。「七十年前、この街には本当に美しい庭があったの」 老婦人は棚から一冊のアルバムを取り出し、開いた。 そこには、古い白黒写真が貼られていた。 広大な庭園。中央には温室があり、その周りを花々が取り囲ん
雨は透花の世界を灰色に塗り替えた。 十月の冷たい雨が、黒い傘の列を濡らしていく。透花は喪服の袖で顔を覆い、母の棺が祭壇に運ばれるのを見つめた。棺の中には、もう二度と目を開けることのない母がいる。三年の闘病の末に、母は静かに息を引き取った。 透花は十六歳だった。「透花ちゃん、しっかりね」 叔母の言葉が耳を通り過ぎていく。透花は頷いた。涙は出なかった。いや、出せなかった。悲しみは確かにそこにあるのに、それを表現する方法が分からない。まるで心に蓋をされたような、奇妙な空虚さだけが透花を満たしていた。 式が終わり、参列者が次々と去っていく。透花は一人、雨に打たれる墓標の前に立ち続けた。「お母さん」 小さく呟いた声は、雨音に消える。 母は優しい人だった。病床でも、透花のことを気遣い続けた。「大丈夫よ」と微笑んで、透花の手を握った。その手は日に日に細くなり、やがて透花の手を握り返す力さえ失っていった。 最期の日、母は何か言おうとして、言葉にならなかった。透花はその唇の動きを読もうとしたが、分からなかった。母は静かに目を閉じ、そして二度と開かなかった。 あの時、母は何を言おうとしていたのだろう。 透花は墓標に手を伸ばした。冷たい石の感触が、指先から心臓まで冷気を送り込んでくる。「すみません、透花さん。お車をお待たせしていますので」 葬儀社の男性の声に、透花は我に返った。頷いて、墓地を後にする。振り返ると、母の墓標が雨の向こうに霞んでいた。 家に戻ると、透花は母の部屋に入った。 病院から運ばれてきた母の私物が、段ボール箱に収められている。透花は箱を開け、一つ一つ取り出していった。パジャマ、スリッパ、読みかけの本。どれも母の匂いがする。 箱の底に、古い革表紙のノートがあった。 透花はそれを手に取り、開いた。母の丁寧な文字が、ページを埋めている。日記だった。 最初のページには、十七年前の日付が記されていた。透花が生まれる前だ。『今日、妊娠が分かった。嬉しい。怖い。この小さな命が、ちゃんと育ってくれるだろうか。私は良い母親になれるだろうか』 透花は息を呑んだ。母の不安が、ページから滲み出てくる。 ページをめくる。母の日常が、言葉となって現れる。透花が生まれた日の喜び。初めて笑った日の感動。初めて歩いた日の驚き。 そして、透花が五歳の時の記述